表と裏ーゴッドファーザー

世界には表と裏がある。
イタリア系アメリカンのファミリーを描いたゴッドファーザー。
誠意を示すために、庇護を求めるというスタイルの価値観によって、
ファミリーは求心力を持つ。そのドンがゴッドファーザーである。

映画「ゴッドファーザー」では、ドンそのものよりも。
三男マイケルの成長物語という面を持つ。
その物語において、痛烈なのは、マイケルが徐々にファミリーに染まっていく
その様子が自然に思えてしまう所だ。ラストで、妻のケイがマイケルに
「殺したの?」と聞いた時、マイケルが首を横に振るシーンがある。
ここに新たなゴッドファーザーが誕生したという象徴的シーンだ。

ゴッドファーザーを見ていると、現代の思想性とは随分と異なる価値観なのだとわかる。
ゴッドファーザーに出てくる女性や子供たちは、本質的に保護の対象である。
そのファミリーを守るためには、殺しも辞さないというものだ。
それがいつしか、非合法な脅しや強請に発展する。

人間組織の核がここに描かれているのだろう。
人間たちは互いに信頼と裏切りを繰り返してきた。
組織とは、内部に入れば、庇護の得られるが、敵対すれば何らかの襲撃を受ける。
このような世界に組み込まれると、そこから抜け出すことは容易ではない。

むろん、このような形で恩恵に預かることもできる。
自分の実力や立場ではどうにもならないことを変化させることが出来るからだ。
だが、考えてみれば、自分の実力や立場でどうにもならないのであれば、
それを求める方がどうしていると普通は思うだろう。
本来の領分以上の何かを得ようとする者は、その見返りを献上せねばならない。
それがゴッドファーザーではことごとく死につながる。
少なくとも、ゴッドファーザーに借りを作るということは、
そのような結末との引き換えの可能性を考えねばならないのだ。

この価値観は、日本の村社会でも同様である。
いや人間組織に共通なのかもしれない。人は少なくともそのような組織の中で、
数十万年生きてきた。そのような組織に適応する心的作用をもつ個体が生き延び
易かったはずだ。他人に恩を売ることで、大きな見返りを得るという仕組みである。

社会には不正義が多々存在する。時に困ったことをしてしまうのが人間である。
その本質的な困った事を社会的枠組みにおいて、解決すべきなのだが、それを
非合法の形で解決するのがファミリーである。

ファミリーは身内の悪さには目をつぶり、それを外部の勢力を排除することで
なかったものにする。このような形で生まれた軋轢を更に非合法的に解決しようとする。
嘘が嘘を呼び、収拾が不能になるまで続けるという作業である。
疑心暗鬼が生まれた所に、本質的な解決は存在しない。

誰かが犯した罪は、その犯した人が償うしかない。
それを常識的範囲で、判断するのが公的機関である。
だが公的機関も、中立的判断が出来ないという点である。
人が人をさばく限りにおいて、どのように誰が購うべきかは非常に大きな問題なのだ。

キリストはこのような人類の罪を一人背負って旅立った。
それがキリストの凄さであるが、多くの人は心弱く、誰かに頼ってしまうものだ。
結局、罪は償うべきことである。もし償いを逃れたとしても、その貸しは大きいのである。

ゴッドファーザーが教えてくれるのは、ファミリーにおける立ち回りとか、
任侠の有難さなどでは決してない。このような形における物事の進め方そのものが
問題であり、ゴッドファーザーがいなくても困った人がその人の罪に見合った形で
社会的制裁を受ける仕組みが必要なのである。むろん、机上の空論であるが。

現実には、透明な関わりだけではない形で世界は動いている。
ファミリーというほどのものではないが、人間社会には味方と敵がいる。
そして自己にとって都合が良いようになってほしいと願うのは人の性である。

無欲であれという釈迦の教えは、このようなアンチテーゼなのだろう。
確実に言えるのは、ゴッドファーザーは幸せにはなれないということだ。
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