利他主義の本質ー利己主義ー [思考・志向・試行]

リチャード・ドーキンスを挙げるまでもなく、我々は利己的な存在である。
彼の言う利己的とは遺伝子レベルの話であり、自己遺伝子の最大化を図るという
ことが振る舞いとして利他的に映るということであった。それは利他性が利己性に
起源をもつという意味であり、利他性の本質が利己性にあるということだ。

さて、これは図らずも我々の行動そのものにもあてはまるだろう。
例えばボランティア。これは困っている人を助けるという行為である。
これをふつうは利他的行動と呼び、優れた行動様式であると捉える。
しかし、果たしてそのようなことがあり得るだろうか?

ボランティアに行けば、助ける人に、助けられることがあることがわかる。
少なくとも相互作用を伴うのであり、単純な利他性とは言えないだろう。
少なからず、困っているひとを見て、何かしたいという自己の欲求不満を
解消する手立てとしてのボランティアと解釈可能だ。

ボランティアに限らず、多くの利他的行為は、そのうちに利己性が内在する。
そうでなければ、そのような行為自体が意味をなさないだろう。本人にとって
矛盾するような利他性とは単なる「命令」の結果である。

純粋な利他性は、純粋な利己性から派生するのである。
本質は常に利己的であるということだ。

このように書くと、例えば自己犠牲という概念の説明が必要となろう。
自己を犠牲にして他者を助ける事は、究極の利他的行動とは言えまいか?
答えはノウである。

自己を犠牲にして、他者を助ける行為にも利己性が存在する。
少なくとも、自己犠牲を意味のある行為として捉えることが可能な時点で、
既に「利己的」であると言える。すなわち、誰かの視点なしに自己犠牲という
観念は現れえないからである。自己犠牲とは誰かにアピールがあるからこそ、
存在価値が生まれるものである。

川でおぼれている誰かを必死で助ける。これはもちろん通常の意味で、
利他的な行為である。しかし本質は溺れている誰かを助けなくてはならない
という心の動揺を抑えるための行動であり、それはあくまで利己的である。

もし上記を利他的ではないかというのであれば、
誰かがサバンナでのたれ死ぬことを利他的と呼べるだろう。
誰にも知られずに、サバンナで死ぬことで、何らかの動物たちのエサになろう。
そのような意味では利他的以外の何物でもないが、通常の意味では利他的とは
呼ばないだろう。

かくして、利他的行動というのはとある行為の話ではなく、
とある「解釈」の話だということが明らかになった。つまり
利他的か否かは、他者との関係性で決まるのである。
本人はあくまでも利己的な行動をとるだけなのだ。

我々の行動原理は「心の動揺を静める」ということである。
それ以外には何もない。そのように仕組まれているのが動物である我々の
宿命であり、その枠からはみ出しようもないのである。
その意味において、常に利他的行動は利己的な心の在り様を反映するのである。
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