幸せになる勇気ーアドラー続編

嫌われる勇気に関して、以前述べた。
その時も、随分と感慨深いものがあったのだが、今回はその続編である幸せになる勇気である。

岸見一郎氏と古賀史健氏によるアドラー第二弾。
話が具体性を増していて、相変わらず面白かった。このダイアローグ方式というのは、
人の思考に自然と入るのだなと実感した。

たまに同様の形式があるのだが、実は一人で二役をやっている場合が多い。
すると、弟子に相当する部分もまた賢すぎて、あまりライドできないのだが、
この本は、きちんと二役を二人が担っている分だけ、リアリティが高い。

アドラーの要諦は、人は目的論を採用している。というものだ。
ここが多くの人にとって不自然に聞こえ、理解を妨げる。いかにも話が逆に見えるからだ。

具体的にいえば、例えば、怒鳴るなど怒りの表出があるが、普通は誰かが粗相をしたり、
子供がいたずらをした場合などに、出てくる行為だろう。つまり、要因があって、怒るのだと。
だが、アドラーはいう。「怒りたい」から、怒るための要因を作り出すのだと。
人の行為に対する志向性が先にあって、それから原因を探しに行く。これが人の心性なのだと
いう。やはり分かりにくい。だが、ここを理解することがとても重要なのだ。

それは、人の行動は因果律が成り立たないという信念である。
店員に水をこぼされても、怒る人もいれば、怒らない人もいる。怒る人も、ときと場合によって
は、怒らないこともある。このような事が起こるのは、出来事が怒りという感情を表出するため
の原因にはなり得ないと解釈するのである。とある出来事は、怒りという感情の説明のために
利用されると考えるのである。

なるほど、こういう思考は十分に可能である。私はこの考えに与することにした。
すると、どうなるか。人はその場、その場で、目的を生み出し行為を実行すると考えるわけだ。
そうすると、人は毎回、とある状態において思考吟味し、行動を決めることになるが、それでは
時間がかかりすぎる。それを短絡するのがライフスタイルという考えだ。どういう行動をとるのか
を前もっておおまかに決めている束と言えるだろう。人は人生を過ごしながら、その束を紡ぎ
あげてゆくのである。しかし、基本的にはその場での目的を目指して人は行動する。

これを外挿すれば、人の行動は過去と直接関係ないと言える。つまりトラウマは本質的な
原因ではないという事になる。これは考えようによっては非常に手厳しい。経験が人を作り
あげてゆくという学習の概念からすれば、過去が現在の自分の行動の要因ではないという
言明は、受け入れがたく思うだろう。しかし、確かに過去を今の自分とは切り離して
考えても辻褄はあう。とある人は、離婚した母親に育てられ、非行に走ってしまう。一方で、
とある人は、同じような状況の母親に育てられて、立派に社会人をやっているかもしれない。
原因が、結果に強い蓋然性で結びつくものは、そう多くはないだろう。ということは、
基本はアドラーの心的メカニズムを採用し、時に、決定論的な因果律による心的理解を
行えば、状況の解釈は可能となる。

さて、幸せになる勇気では、教師となった聞き手が、再度哲人に話を聞きくるところから始まる。
教師はアドラーを実践し、ほめず叱らない教育を施した。ところが、学級はあれてしまい、
いまや、以前のような管理的学級の体制を引いているという話。

アドラーは、問題児たちの問題とは、実は学級を競争社会にしているせいであると看過する。
個々人の生徒は自分の居場所の確保であり、そのために特別になろうとする。特別になれば、
他者から居場所を与えられるからだ。それが生徒の行動の「目的」」であると。

そのためなら、学級でのいたずらや反抗もまた、一つの手段になりうる。
生徒の欲求が満たされない時、どうなってゆくかには5つの段階があるという。そのような
問題行動は、そもそも、競争社会になってしまっているところから来るとアドラーは説明する。

この競争というのは、自分の居場所を確保する競争である。勉強が出来る、運動が出来る、
そういう能力があれば、自分の居場所を確保できる。じゃあ、それがない場合は? 面白い
人になる。ひょうきんな事をして目立つ。いたずらをするなどだろう。また先生に反抗すれば
ヒーローとしての立場を確保できる。そのようにして、生徒たちは居場所を確保するために
戦っているのである。

では、どうしてそうなってしまうのか。その理由の一部は、褒めることや叱ることである。
先生が、誰かを褒めると、そこに居場所が承認される。逆に、悪目立ちに対して叱ることも
また居場所が承認される。どちらにもなれない凡人であると認定された子どもたちはどうする
のか。そこに心の不安が生まれてくる。ならば、そもそも褒めたり、叱るべきではないのだと
アドラーは言う。むしろ、その個人を尊敬するべきであると。尊敬とは、共感を寄せることで
あり、その彼や彼女の立場になって、どうして彼らがそういう行動をするのかに寄り添うことだ。
そして、それを信頼することである。端的に言えば、その人を一人の人間として認めることだ。

そうすれば、特殊な能力がなくとも、その人は自分の存在を認められるだろう。つまり、
居場所を確保できるのだ。あなたの存在をそのまま認めますと。むろん、これはありのままで
良いという意味ではまったくない。存在性について了解するという話である。

これが確実に実行されるのであれば、各人は自分の居場所確保競争に一生懸命になる必要はない。
自然と問題行動は落ち着くと言えるだろう。その背後にあるのは、他者による承認をはねのけ、
自己による承認を得ることだ。そのままの自分を自分が認めるという事なのだ。

アドラーは人生には3つのタスクがあると言った。仕事、交友、愛である。
仕事のタスクに関して言えば、信用が大事である。信用とは条件付きであなたを認めるという
事である。これは仕事が機能性から分業されるからである。そして、利己的で良いのだという。
どんな仕事にも貴賤を認めない。この事は、どんな仕事も存在しうる限り、意味がある分業で
あるとみなせるからだ。ならば、自分が選んだ仕事を全うするほどに、その仕事は他者に貢献
するだろう。大事なのは、どんな仕事かではなく、どのような態度で仕事をしているかになる。

(私としては、やや異論がある。どんな仕事でもとは究極的すぎる。価値あると思える仕事
 と注釈を付ける必要があろう。その意味で、自分が価値ある仕事だと思える職についた人は
 それだけで人生の半分は成功なのだと思う。)

どのような態度か。それは他者がこの人と一緒に仕事をしたいと思えるかどうか。それが
基準となる。

交友はどうだろう。友人関係においては、信頼が大事であると。信頼とは、条件をつけずに
相手を受け入れるという事だ。これは相手を尊敬する事でもある。つまりありのままの相手を
みつめ、寄り添うということ。簡単ではないだろうが、これが実現できれば、良き友がみつ
かるだろう。おそらく簡単ではない。そしてこの行為は、能動的である必要がある。なぜなら、
自分にとって相手が価値があるから一緒にいるとか、相手が素晴らしく憧れるから一緒にいる
とかではない。相手の状態や能力に関わらず、その相手を信頼するという事なのだ。

そして、愛のタスク。アドラーは、愛とは困難であるという。それは先の2つとは
まるで違うからだ。仕事では「私の幸せ」を、交友では「あなたの幸せ」を願う。
では、愛は?

愛は「私達の幸せ」を求める事とアドラーはいう。人は生まれた時、他者に劣るものとして
自己を認識する。だからこそ、他者から協力がなければならず、他者に協力を依頼する立場
にたつ。それが一方では、他者承認という罠に陥らせてしまうのだが、うまくいけば、自分で
自分を承認できるという状態になり、自立することになる。自立とは自己がどういう状態かに
関わらず、他者に依存できること、つまり、他者承認で動くのではなく、自ら立つわけだ。

そして、アドラーはいう、自立とは自己中心性からの脱却であると。
それは「私」ではなく、「わたしたち」という存在に自己を投じる事だと。それを愛であると
アドラーは主張した。愛が難しいのは、それはかつて通ってきた「愛されるためのスタイル」
から脱却しなければならないことだ。つまり自分の生存を確保するというスタイルから、
自分を他者のために用いるという事になる。そして、それは二人によって成し遂げられること。
一人では無理という困難さがある。

アドラーは究極的なことを言う。愛すべき対象も問題ではないと。その態度が重要であると。
つまり、愛すべき対象は誰でも良いという事になる。態度とは、努力なのだと。
日々、愛を実践するということは、「私」ではなく、「わたしたち」として生きるという事。
そして、それが家族を超え、共同体へとつながるわけだ。


多くの人々は、果たして自立しているのかとアドラーは問う。
私達は生きるために「愛されるためのライフスタイル」を確立して来た。それはつまり子供
という事であり、未熟者が行う事だ。大人になり、社会人となってもなお、「愛されるための
ライフスタイル」を維持している人々はそれなりにいると言えよう。

上司に褒められる事や、叱られる事で、自分の立場を確保しようというのは、
「愛されるための手段」である。そんな他者承認を求めるのは、自立ができていない未熟者
だからである。そうではない。自分で自分を承認した人間は、そんな卑屈には生きられない。
上司に気に入られるために、ごまをする。それを心から行っているとすれば、自立のできない
大人となってしまう。

自立するには自己中心性から逃れること。つまり、「愛されるライフスタイル」からの
決別であり、自らが愛する立場に立つことである。愛とは主語を「わたしたち」にする事である。


いうは易し、行うは難しだろう。私もそう思う。けれども、アドラーの提言するような
状態になれれば、人はきっとよりよい人生を送れるのではないかと希望を持つことが出来る。
そのための人生に対する態度は、「愛し、自立し、人生を選べ」である。

これらの僅かな要素でもいい、実践したいものである。
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この考察には無関係なのですが、ルサンチマンについての考察は、過去にありましたっけ?
by お名前(必須) (2019-02-06 18:49) 

D-Blue

すっかり忘れていましたが、
https://d-blue.blog.so-net.ne.jp/2013-10-22

という過去記事がありました。
by D-Blue (2019-02-07 00:23) 

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