説明原理ー原因とは?- [思考・志向・試行]

原因とは説明されるべき何かであって、
まさしくその要因ということではない ー内田樹ー

要するに、原因とは「よくわからない」ことについての一応の「説明」と
なる根拠を与えるものである。その説明精度は二の次だ。

とある人が失敗したとしよう。
その原因は何か?あの人はせっかちだからなあーという人もあれば、
あの人は不器用だからという人もいる。つまり原因の説明は一つではない。
芥川の示した羅生門のように、観測者次第の説明がつけられることもある。

つまり、説明とはそれを聞いたものが納得することが目的であって、
決して、何かを解明するものではないことをここに明記したい。

もちろん、突き詰めればかなりの説明精度が出てくる。
F=maのように、ニュートン力学は宇宙船の運航を可能にした。
宇宙における単純な物理現象を実にうまく説明してくれる。

この説明とは、「予測性」を含む。
この予測性の精度が結局のところ説明の精度である。
よって、説明の精度は常に未来に向けて開かれていなければならないのだ。

とある説明が意味を持つのは、それを学んだ後の人が再度
その事象に出会い、それについての落とし前をつけられるということだ。
そして、その「普遍性」が高いほど、良いとされる。

昔は自然発生説というものがあった。
ハエは雑巾の中から生まれてくるというものである。
これが間違えなのは我々にとっては常識であるが、
それは現代の「命は命からしか生まれない」というドグマを説明原理に
おいているからに過ぎない。なぜ自然発生説が敗れたかはその「予測性」「普遍性」
が低かったからである。逆に言えば、これらの性質が大して違わなければ、
我々はいまだに自然発生説を採用し続けるだろう。

ある人物の性格について考えてみよう。
普通、我々は彼の行動をみて、一連の性格を見極めようとする。
その性格とは、彼の一人称的行動を観察することであり、
二人称的な対応をみることであり、三人称的に眺めることである。
これらを総合して我々は他人に対する性格を見定める。

通常、一人称的行動を解釈するには、「常識」が必要になる。
子どもが大人の行動をみてよくわからないことがあるが、
それは子どもには大人の常識がないからである。この常識はつねに
個人によってばらつく(問題①)

二人称的な対応とはつまり、対話である。言葉でもジェスチャーでも、
相手との直接的なやり取りである。ここには互いに好き嫌いといった
「感情」や「利害関係」というソーシャルな成分が入り込む(問題②)

三人称的な観測は、観測対象に対する説明を別の人とシェアすること
である。あの人はせっかちだということであったり、あの人は感じよいと
言ったりすることである。当たり前だが問題①によって、人は解釈を
帰るので、このシェアされるべき内容が必ずしもコンセンサスを得ることはない。
(問題③)

まとめると、問題①②③によって、我々は常に他人の性格を見誤ることになる。
つまり、極端な解釈(説明)を与えれば、「我々には他人の性格はわからない」となる。
しかしながら、それではいろいろと面倒であるので、適当なところで丸めるのだ。

基本的には個々人が眺めた性格というのが説明として採用される。
ところが、ときおり、三人称的にシェアされた説明が幅を利かせることがある。
たとえば、あの人は実はヤクザなのだという情報だったりする。
これが本質を違える問題点であるのだが、多くの人は直接情報よりも
なぜか、間接情報をより真実と捉えてしまう傾向を持っているため、
その人へ対するもともとの説明を歪めてしまう結果を招く。
これが、多くの場合の人間関係問題であろう。

当たり前だが、人は多面性を持つ。つまりある人に対しては優しいかもしれないが、
敵に対しては冷たいかもしれない。この場合、この人の評価は扱われた相手次第で
180°変わるだろう。これが意味するのは性格に「普遍性」が少ないということである。
ここでいう普遍性とはみんながシェアできるという意味であり、上記の普遍性と
区別したい。「共有型普遍性」と名前をつけておこう。先ほどのものは「適応普遍性」
と呼ぶことにする。

とある人の行動パターンというものはある程度決まっている。
だからこそ、我々はそれを「性格」と名付けて、利用しようとするのである。
説明をつける最大のメリットは「予測性」である。上記にも記したが
未来に向けて、その定義が演繹的に利用できるとき、説明の効力が発揮されるわけ
である。Aさんはいつも気が利く人であるとか、Bさんはいつも抜けている人だ、などは
そのようなパターンの認識において行われる。この認識の最大の必要性は「予測性」を活用
することである。つまり、Aさんなら、こういう場合、こうこうするだろうと予測が立つ
ということである。これは説明として利用価値が高いのだ。

つまり、良い説明とはこの「普遍性」の高さであり、「予測性」の高さであるわけだ。

翻って、それが人の性格というものに対してはどうか?問題①のように人々は
自らの体験をベースに人を判断するので、問題③を常にはらんでいる。すると
「共有型普遍性」は基本的に成り立たないと言える。また人は年をとると変わる。
また体験によっても変わる。これによって「適応普遍性」もまた成り立ちにくい。
では「予測性」はどうか?人の行動はパターン化されているという意味では
「予測性」は高いと言えるが、新しい状況に置かれた個人が何をするかは
ほとんど未知といえるだろう。つまり今までの観察によって見出された性格が
過剰適応されるか、不適応となるのである。

結果、何が言いたいかといえば、人の性格は「普遍性」「予測性」において精度が
確保できないために、説明されるべき事柄が限定されてしまうということである。
つまり「人は変わる」ということである。

何気なくいま「人は変わる」と結論付けたが、これが上記にあげた「説明原理」である。
自然発生説が敗れたように、人の性格は決まっているという説明を新しい説明「人は
変わる」に置き換えた瞬間である。そして、このエントリーは新しい説明原理を
説いたことになった。

常識的に考えて、人は変わる部分と変わらない部分を持つ。これはみんなが知るところだ。
ところが時折人は、この変わらない部分の説明を変わる部分へと過剰に適応するために、
誤解が生まれるのである。誤解があることが本質的な知性の在り方なので、それもやむを得ない。

説明されるべき対象が人を離れるほど、その「予測性」「普遍性」が高まる傾向にあると
トルストイは説明した(「生命について」)。確かにその通りである。

現代の科学とはこの説明原理「予測性」「普遍性」の申し子であり、これに当てはまる事柄
を探すということが事の本質である。よって、当てはまりが悪いことについては問題設定を
変更して、対処するしかないのである。

説明とは単純なようでいて、実は何の説明にもなっていない場合が多い。
占いやまじないようなものがどうして科学の視点から相手にされないかといえば、
その「予測性」の低さや「適応普遍性」の低さが故である。
しかし、説明そのものの要素は含んでいるために、多くの女性はそれを重宝するのだ。

説明とは人のためにあるともう一度考え直したとき、
その真性の高さは問題ではないのだ。次回はこれについて言及したい。

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